皆様こんにちは。
スポーツアナリティクス事業課の早津です。
普段はピッチング、バッティングなど、野球全般のコーチを務めています。
突然ですが、皆様は指導者としての哲学をお持ちでしょうか?
本日は「指導者の哲学」というテーマでコラムを書かせて頂こうと思います。
皆様もぜひ、ご自身の指導哲学について考えながらお読みいただければと思います。
世界的に有名なスポーツ心理学者であり、米国で最も売れたコーチング書籍の著者であるレイナー・マートンは、自身の著書の中でこのようなたとえ話をしています。
「あるところに老人と少年とロバがいた。町へ行くのに少年がロバに乗っていくことになった。
途中で会った人々は、少年がロバに乗り、老人が歩くのは気の毒だと言った。
老人と少年は、みなの言うことが正しいと思い、入れ代わった。
しかし、さらに行くと今度は幼い少年を歩かせては可哀想だと言われた。
そこで彼らは、2人とも歩いて行くことにした。
すると今度は2人ともロバに乗らないのはバカだと言う人々に出会った。
老人と少年は、みなの言うことが正しいと思い、2人ともロバに乗った。
しかし、今度はロバのような小さい動物に2人が乗るのは可哀想だという人々に出会った。
老人と少年は、みなの言うことが正しいと思い、2人でロバを運ぶことにした。
だが、川を渡る途中、手がすべってロバは川に落ち、溺れてしまった。
この話の教訓は、すべての人を納得させようとすればロバを失ってしまうということである。」
(レイナー,2013,”スポーツ・コーチング学” ,p.4)
これはコーチングの現場に立った時に、自分の哲学がないと最終的に望まない結果を生み出してしまうというメッセージですが、私が指導現場にいるときも、このような選択が様々なパターンでひっきりなしに起きていると感じます。
内容の良しあしを一旦横に置いておけば、指導者に哲学があることによって選択をする時の助けになるうえ、その選択が哲学に基づき一貫していれれば、選手も安定した心理状況でプレーすることができると考えています。
反対に、明確な指導哲学がなくあいまいで不安定なコーチングは、選手との信頼関係を築きにくくなり良いパフォーマンスが出せない要因の一つになりうるでしょう。
私の指導哲学の一つは「選手と常に対等であること、人としてリスペクトをもって接すること」です。
指導者は決して選手より偉い存在などではなく、あくまで与えられた役割の一つにすぎません。
また、競技スポーツにおける主役は選手であり、選手の自己実現をサポートすることが私の役割と認識しています。
選手のサポートをするためにはフィルターや忖度のないコミュニケーションが必要で、あくまで対等に、同じ目線で語り合える関係でなくてはなりません。
指導哲学というものは、終始固定されたものではなく、日常の中でどんどん変化していくものだと考えています。
選手にとって、最高の結果を導くことのできるような指導哲学を、私はこれからも探し続けていきたいと思います。
文責 早津